今川氏全盛期9代義元の時代天文18年(1549)に、家康(幼名 松平竹千代)は人質として19歳までの12年間、駿府で生活しています。後に戦国大名、そして天下人へと成長していく過程で臨済寺の住職太原雪斎などから種々の教えを受けており、家康の人間形成の上で非常に重要な時期を駿府で過ごしています。
戦国争乱の中、永禄11年(1568)10代氏真は甲斐の武田信玄に攻められて掛川に落ち、駿府の町は焼き払われます。さらに、天正10年(1582)には家康が駿府の武田勢を攻め、再び戦火に遭った中世駿府の町は、ほぼ壊滅状態になりました。
駿河国を領国の一つとした家康は、天正13年(1585)から居城として駿府城の築城を始め、天正17年(1589)に完成させます。現在の二ノ丸以内の部分です。しかし、家康は翌年関白豊臣秀吉の命によって関東に移封(国替え)され、豊臣系の家臣中村一氏(なかむらかずうじ)が城主となります。豊臣秀吉亡き後、関ヶ原の戦いに勝利した家康は、慶長8年(1603)征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開きました。
慶長10年(1605)将軍職を2代秀忠に譲った家康は、その翌年駿府を「大御所政治」の拠点の地と定めて再び戻ってきました。天正期の駿府城を拡張(三ノ丸)修築し、駿府の町割りや安倍川の治水事業に取りかかり、現在の静岡市の市街地の原型が造られたのです。
そして、家康自らは、晩年も「大御所」として天下の実権を掌握し、駿府は江戸を凌ぐ政治・経済・文化の中心としてその黄金時代を迎えたのでした。
駿府御城惣指図(静岡保徳株式会社所蔵)
駿府城略年表
建武4年(1337) | 初代今川範国、駿河国の守護に任ぜられる。(建武5年説もあり) ●駿河国は、今川氏の領国となる。 |
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天文18年(1549) | 徳川家康、今川氏の人質として駿府で生活。(永禄3年まで) |
天正14年(1586) | 徳川家康、駿府に入る。 |
天正17年(1589) | 天守をはじめとする二ノ丸までの駿府城完成。 |
慶長5年(1600) | 関ヶ原の戦いで徳川方勝利。 |
慶長8年(1603) | 徳川家康、征夷大将軍に任命され江戸幕府を開く。 |
慶長11年(1606) | ●この頃より、駿府の町割や安倍川の治水工事をはじめる。家康は新しい城の建設を川辺町付近に計画するが、従来の駿府城を南・東・北に拡張することに変更。 |
慶長12年(1607) | 2月駿府城本丸、二ノ丸の修築をはじめる。 ●7月徳川家康駿府城に移り住む。本丸は完成するが12月に出火し、御殿をはじめ天守など本丸の全てを焼失する。直ちに再建にかかる。 |
慶長13年(1608) | 本丸御殿等完成。 |
慶長15年(1610) | 天守完成。 |
元和2年(1616) | 徳川家康死去(75才)。久能山東照宮に埋葬される。 |
寛永12年(1635) | 城下より出火、城内に延焼し天守・御殿・櫓・塀等大半を焼失。 |
寛永15年(1638) | 御殿・櫓・城門等が再建されるが、天守は再建せず。 |
宝永4年(1707) | 宝永地震により駿府城の石垣や、建物の1/3が倒壊。 |
宝永5年(1708) | 駿府城の修築工事を行う。 |
安政元年(1854) | 安政の地震により駿府城内外の建物、石垣などほぼ全壊する。 |
安政4年(1857) | 修復工事を着手し、安政5年完了する。 |
明治2年(1869) | 「駿河府中」を「静岡」と改称。 |
明治3年(1870) | 二ノ丸冠木門払い下げ。以降明治9年までに大手門以下各城門が払い下げられ、取り壊される。 |
明治29年(1896) | 駿府城跡を陸軍省に献納。 |
昭和24年(1949) | 静岡市、駿府城跡の払い下げを受ける。 |
昭和26年(1951) | 「駿府公園」と名称が決まる。 |
平成元年(1989) | 復元巽櫓完成。 |
平成8年(1996) | 復元二ノ丸東御門完成。 |
平成24年(2012) | 「駿府城公園」と改称。 |
平成26年(2014) | 復元坤櫓完成。 |